ファッションの始まり

ファッションの始まり

ファッション
(特に衣服の型についての)流行。はやり。

ファッションとは流行、身に着けたり着たりするものの風習、習慣ですね。
ファッションの始まりはおそらくまだ明確にはわかっていないのではないかと思うのですが、可能性を上げるならば、人類が進化していき、生活する中で外敵や肉食獣から身を隠すのに役立ったもの、あるいは、寒い環境で生き抜くために体を保温をするもの、または原始宗教における死者への埋葬時の化粧や恰好、雨ごいや豊作を願う時の化粧や恰好、おそらくそう言ったものになるのだろうと推測ができます。

ただ、当時は美を競ったりするものではなく、あくまで生活の中で必要だったものから、それがだんだん派生していって、そのうち見た目の美しさに拘るものになったのではないだろうかと、私は漠然とですが想像しています。日本で言うならば、最初のファッションは縄文土器の縄文柄であると言えるのかもしれません、当時の習慣として土器に縄を転がす事で柄をつける事を多くの縄文人が行ってきた形跡が残っています。それが日本で最初の流行、と言えるのだろうと思います。

そして、日本では古墳を大量に建設していた飛鳥時代には、純粋に見た目の美しさを競いあうファッションが定着していったようです。

これが日本の着物の初期、飛鳥時代のもののようです。
綺麗に配色がされた衣服が完成されました。まだこの頃は当然に大衆が楽しむような見た目の美しいファッションは存在していなかっただろうと思います。
まだ当時は余裕のある貴族階級やそれに近い人々だけの文化だったと言えると思います。

そして中世になって、西洋の思想家たちが、人は一人では生きる事ができないため、社会を形成して生きるしかないが、その人間の社会はどうやって成立したのかを思考実験する「社会契約説」という論文をルターたち様々な思想家が打ち出してきました。まだ政治体制が未熟だった中世は、いかに人間が社会を成立させてきたのかを辿る事で、より多くの大衆が平和に暮らせる社会の追求をしてきたわけですが、その社会を維持するためには多くの労働者の存在が不可欠の存在になってきました。

有名なジーンズファッション、これはもともと19世紀後半のアメリカの鉄道労働者の力仕事が非常に重労働で、丈夫なズボンでないと破けてしまうなど様々な不都合が生じた事から、それらの労働者のニーズに応える形で、仕立て屋を営んでいたジェイコブ・デイビスが制作を始めたのが始まりでした。

その丈夫さが有名になって口々に広まりどんどん注文する人々が増えていったわけです。このジーンズファッションというのも特徴的で、一般的には洋服やバッグや財布、その他のアクセサリーもなるべく原型を留めて綺麗にして置くことで価値を補完していきますが、このジーンズファッションは汚れや経年劣化と言っても良い劣化をファッションとして楽しむようになっていきました。また、労働者階級に爆発的にファッションが広がったのも、これが大きなきっかけとなったのかもしれません。

この頃の日本は、明治維新の真っ最中くらいでしょうか、ペリーが日本に来航したのが1852年ですので、そのくらいの年代かと思いますが、日本はまだ江戸時代だったわけですね。しかし、19世紀というのは欧州に、人権意識が未熟なままに資本主義が広がり始めたために、お金を持った資本家や権力者たちは、労働者に重労働を強いており、「金持ちは敵である、財産をすべての人が平等に持てる社会を目指そう」というマルクスの共産主義が広がるほどだったので、労働者階級はまだ見た目のファッションを楽しめるほどの余裕などなかったのでしょう。

©Photo. R.M.N. / R.-G. Ojéda

日本はまだ当時は江戸時代ですが、欧米とは違った価値観があり、権力を持っていたのは武士や貴族階級でしたが、お金を持っていたのは町人や商人でした。武士は独自の価値観を持っており「武士たるものが商人のように金稼ぎなどケチな真似をするべきではない」という価値観だったのですね。そして武士というのは給料を石高、つまり米でもらい、それを商人に売る事でお金を得ていたため、江戸時代の戦国時代が終わって、江戸も中期から後期になると、武士よりも町人の方がお金を持っていたわけです。お金が無く、借金をして武士の階級を売ってしまう人も居たそうです。坂本竜馬の家も確か実家は商売をやっていた商人の出であり、借金のカタに低級武士である郷士の武士階級を買い取った事で武士になった家柄であった気がします。

そのため、欧州と日本との文化や社会状況の違いにより、欧州と比較すれば日本の低中階級は自由に米を売る事も可能でしたので、比較的にファッションを楽しむ余裕があったようです。

実際に、元々武士ではなかった人々の集団である新選組は、仲間割れをしたのちに壬生浪士組と名を定めて京都に居残り活動を始めますが、この時の隊士のユニフォームが、あの有名な浅葱色の羽織になりました。庶民でもがんばればこういう衣類で揃えたりする事が日本では可能だったのです。あの羽織袴は、元々は赤穂浪士が使用したものを真似たそうですが、赤穂浪士はこれより少し昔の武士階級でしたので、財政に余裕はあったのだろうと推測しています。

ファッションとは何も身にまとうものだけを言うのではありませんね。流行、はやりと定義されておりますので、例えば現在の世界は資本主義や民主主義が基本的な国家統治の思想ですが、そこに住む多くの人々もそれらの思想が国家統治においてベターであると考えているため、これもある種のはやりと言えるのかもしれません。

それとは逆の立場で、投資家や権力者が庶民労働者を虐げて散々搾取してしまうので、これに対抗しようと社会主義が起こって、共産主義に進展しましたが、この一部の金持ちには再分配をさせよう、一部の金持ちだけが裕福なのは不平等であるという事で反発して流行った思想が共産主義や社会主義でした。そのため、これらは思想的なファッションと呼べるのかもしれません。

そういった思想を共にする中で、身にまとう衣類が統一されたりする事もあったようです。人種差別がまだ盛んだった事の公民権運動で活動していたブラックパンサー党は全員ブラックのジャケットとサングラスを揃えて集まり、それはなかなか威圧感のあるものでした。

15世紀のイタリアフィレンツエェでは、後の世で理想的な君主とされたチェーザレボルジアがローマ教皇である父親の権力と権威を後ろ盾にして暴れまわっていた時期でした。チェーザレの死後にマキャベリは自国軍の創設に尽力するのですが、それまでのフィレンツェには自分たちの軍隊を持っていなかったために、隣国に奪われたピサの奪還作戦も、傭兵を雇って戦わせていたので、皆が金のためにしか戦わないわけですから、誰も本気で戦う事なく適当に戦い逃げるため、マキャベリはピサの奪還と自国の防衛のために傭兵で国を守る体制を捨てて自国軍を創設しました。

その時のフィレンツェ軍の装備が、芸術の三大巨匠と言われた人物が当時三名いましたが、レオナルドダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロの三名です。マキャベリはこの中のミケランジェロにフィレンツェ軍の装備をデザインさせたため、それはそれはかっこいい軍服が出来上がり、軍のモデルケースを街中で練り歩きをさえ、軍隊の人員を募集したところ、そのカッコよさのせいか、フィレンツェ軍はみるみる人員が集まりました。

そしてマキャベリは見事にピサの奪還を成功させています。このようにファッション、デザインとは社会の様々な事象に密接に絡んでおり、そのファッションを見ればある程度のその時その場の社会が見て取れると考えております。